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吉村真基/建築についてのテキスト

jt2017年6月号 全作品レビュー

今月号の住宅特集はかなり良い特集だと聞いて、久々に購入。
読み応えありすぎだったので、自分のトレーニング兼ねて全ての作品をレビューする、というのをやってみた。
今回は「大モノ」が数作品あるので、それらについての言及は散見するが、全部について言及している人はまずいない。「大モノ」については色々と言及しやすく楽しくやれたが、やってみて意外なほど訓練になるな、と思ったのは全作品という点。
私の勉強不足ゆえに中には読み解きにかなり時間を要するものもあったが、どの作品にもそれぞれ固有のクリエイションの端緒と「誤読」のフトコロがある。なんてことは当然なのだけど、これを短くても文章にしようとするといつも使ってないところを使って意外と苦戦したり。だから筋トレ。作品をぱっとみたときに「おお、なるほど、この作品はアレだな、アレ」と思った「アレ」があまりに漠然としていることに気がついて、ハッとする。
雑誌的に眺めるだけじゃなく、たまにはこうやって建築をテキストとして読み解くのも楽しいです。jtの良い所は物量。一作品をじっくり…じゃなくて作品に次ぐ作品を短時間でつぎつぎに読む。
勉強になったので、これから毎月やってみようかと考えている。
媒体を変えるか、固定するかは検討の余地あり。
 
同じ設計者として、批評はしても批判はしない。やたら褒めるだけというのも出来れば避けて、できるだけニュートラルな読み解き、出来れば誤読を目指す、ということをルールにしました。
 
ツイッター仕様になっているので微妙に語尾がまるめてあったりします。
 
House&Restaurant 石上純也
この現場にはひたすら驚嘆。例えるなら別の星から来た生物が、二本の足で歩くこと、食べること、言葉といった人間の営みや、空から雨が降ることや風が吹くこと、地表が土で覆われていることなどにいちいち驚嘆しその驚きのままつくったような建築。
ここでは建築が社会とか歴史とかを飛び越えて、まったく異なる位相に直に接続しているように思える。空間という言葉の定義が別種のものに響く。異星人は地球の空間ではなく時間の存在に驚いたのかもしれない。21世紀の地層にこの建築を発見することになる数百年後の考古学者を混乱に陥れそう。
 
弦と弧 中山英之
とても不思議な建築。建築が設計されながら「解体されている」と思えた。
テキストを読むと、建築の中でモノや人や人の感覚すらも異物にならないように、すべてのものを等価に扱うというストイックな姿勢があることがわかる。結実したものは空間が唐突に展開していくような建築になっている。カメラをパンしてるのにパッパっと切り替えたようなシーンが連続する。
ここでは空間とそれを支える構成とディテールとそこに想定される機能とそこに置かれるものを、つまり設計と設計から生み出されるもの、設計でないもの、を同時生成する、というメタ設計が存在している。分布させる、というワーディングが興味深い。
 
川崎の住宅 長谷川豪
大いなる他者としての床下の斜めプレートと共に生活する住宅。少し前まで住宅は生産・社交の場でもあり、必然的に他人が出入りする場であったため、住宅自体が他者である必要はなかった。今は住宅といえば専ら他人でない者同士の空間になってしまったから、住宅自体が他者となる
そのことは個人に恩恵をもたらすかもしれないし、あまり関係がないのかもしれない。が、確かにその方が自己の欲求を最大化した自家中毒的な住宅よりも、人と住宅が風通しの良い関係でいられるような気がする。
 
光と翳の家 坂茂
構造が面白い。構造を起点とする建築の「建て方」におけるヒエラルキーをフラット化する試み。構造と光を制御する装置を一体化し構造が二次部材的な表れ方をしている。工法の特性を生かして外形はシェル。壁、屋根だけでなくスラブも同じ工法で作りきったロの字構造が凄み。
 
心音のいえ 高崎正治
これも驚嘆。異界からの言葉を紡ぐような建築。今月のjt濃すぎ…。よく見ると水平垂直にグリッドが張られその各ブロックがそれぞれ意味に溢れた空間として構築されていることが分かる。この中心のないカルテジアングリッドの存在が既知の高崎建築と大きく違うような気がする。
縦方向には大きく三層だが層の間に「欄間」の層があり、ここが様々なメッセージを孵化するレイヤーであるように感じられる。同時に空間的にはこの層が建築全体を重力から若干開放し、光に溢れた魅力的なものにしていると思う。
 
荻窪の住宅 マウントフジ
これも建て方におけるヒエラルキーのフラット化。構造/仕上というヒエラルキーをCLT版というモノコックな要素に圧縮することで建て方の手順が中抜きされ「構え」だけが残る。家型フレームがイレギュラーに陥没して構えを崩しそこから空や光が入ってくるのがチャーミング
 
IRON Gallery 梅沢良三+新関謙一郎
鉄の建築。構造と仕上、サッシ、手摺などの二次部材に至るまで鉄。様々なレイヤーを鉄という素材で串刺しすることによってその素材性が際立つ。この作品では鉄という物性を通した、建築の建て方におけるヒエラルキーの再編が目指されているように思う
 
住吉の家 堀部安嗣
放射状垂木の方形屋根。私、修行がたりんな…以外の感想が出て来ない…土地や施主といった他者に身を以て向き合い建築の微細な質をその他者に向けて調整する。隅木と垂木の間のヒエラルキーを解消するための僅か数十ミリの攻防と隅部の開口によって矩形の中に放射状の空間性が現象
 
西新井の家 奥山信一
中心のヴォイド空間に住宅の様々な機能が立体的に紐づけられている。いかにもなスキップフロアという大仕掛けを使わずにでも場所によって床のレベルを細かく調整することでオープンな1階と諸室の並ぶ2階が立体的に繋がるというのは高度な手法だと思う。理想型の残像
 
掬光庵 MDS
黒い。黒いけど黒の色よりもツヤの印象が強い、文字通り光を掬い取るような住宅。螺旋状の動線と呼応する風車型の方形屋根の架構。螺旋の動線上に諸機能が無駄なく配置されておりきっちり納まったプランの印象が強いが、空間は風車型架構の屋根で覆われて大らか、気持ち良さそう。。。
 
内と外の家 フジワラテッペイ
骨の提案を通して住宅に中間的領域を呼び戻すことの可能性を考える作品。あるいは住宅そのものを中間的領域として捉え直したいということなのかも。故に、特徴的な軸組をまず設定した上でそのフレームを自ら読み替えるという手順を踏んでいる、ということだろうと思う。
 
GableRoofHouse アルファヴィル
連続する切妻ボリュームの角度を45°振るというごく単純な操作によって驚く程鮮やかに複雑な空間が展開する。4つのうち2つは総2階だがこの介入によって2階が自然に開き2階床の下にいても切妻の空間性が感じられ。特異点挿入のバランスがさすが。
 
TopologicalFoldingHouse 山口隆
メビウスの輪/一つのプレートが絡み合い床と屋根に分化している。一方プランを見るとガランドウVS諸室の2つのボリュームの組合せ/オーソドクスな手順をベースにしていることがわかる。建築の生成のストーリーを組み替える設計が面白い
 
HOUSE BH 萩原剛
リビングとなるメインの空間に諸室が吊られる。に留まらず様々な要素がすこーしだけ浮いた状態を保ち、全体が浮遊感のある空間になっている。大小の見せ場がリズミカルに展開し、飽きさせないというか、プロを感じる。ウチら雑草だな…とうちひしがれることしばし。。
 
芦屋の家 山﨑壮一
隅切のある角地に扇状に屋根を広げ、その屋根と壁の間がスッパリと切れている。コアから垂木が狭いピッチで放射状に外に向かう形状になっていることが、扇状に開いたこの場所の空間性と呼応していて説得力がある。
 
大屋根の家 甲村健一
タイトルは大屋根だが「大天井」が面白い。屋根即天井ではない。天井は直射を和らげつつ奥まで光を届ける「反射板」である。しかもフローリング仕上である。だから天井は屋根に属するのではなく反射の関係を通して床と対の存在として捉えられていることがわかる。とても興味深い
 

住宅と非住宅を分つもの

過日、遅ればせながら諸江さんのLT城西2を拝見…さらに遅ればせながらその時に考えたことのメモ。
LT城西2は21人(!)が暮らす住宅。使われているのはすべて住宅の要素なんだけどそれぞれがちょっとずつスケールアウトしている。何せ21人ですから。
ぱっと見すべて住宅の要素で作られてるんだけど住宅とは明らかに別種の空間になってて面白かった。
特に2階は住宅というより小さな公共建築みたいな非住宅的スケール感。微妙に大きいんだけど大きいってことは一つの要素に過ぎず、きちんとナカ取ってる感じの寸法というか、その距離の取り方が住宅でありつつ住宅ではない空間を形成していた。
自分の家だとしたらちょっと物足りないかもしれないが、21人の一人にとっては大変気持ちの良い居場所だろうなと感じた。
この距離感は諸江さん独特である。諸江さんの住宅は独特なスケール感だなーといつも思うのだが今回はそれがハマった感じだった。
分厚い中央分離帯で隔てられている住宅建築と公共建築の間に、せまーいけれどもそのどちらでもないことが可能な中間ゾーンみたいなものはあって、それをアイテム使わず設計で、寸法だけで作れるとしたら、面白いかもしれない。
ちなみに21の個室は廊下に並列されているわけではなく3〜4室のクラスタになっており、日本の平均世帯構成人数が2.5人であることを考えると数的にはちょうど合っていると言える。
 
ところで、デカいシェアハウスを見たので同性婚がありなら複数婚もありなんじゃないかと思った。
一夫一婦制というのは男女かどうかはともかく1対1、これは完全人格同士の関係という幻想を前提にしてるような面がある。でも現実にはそんな風に一人でレーダーチャートを満遍なく満たすような人はそういないわけで、でも3人、4人掛け合わせれば結構いいとこ行くよ、みたいなことは往々にしてあるんじゃないだろうか。
…LT城西2ならはそんなユートピア的な状況も生まれそうな気がした。
 
LT城西2は住宅と非住宅の境界線を絶妙に示してくれていると思う。
住宅と公共建築は、プログラムの、敷地の、建物の、関わる人数の、すべてのファクターの大きさが違うため、そもそも比較の対象にならないのが普通だ。でも、どうやらそうした量的な違いがそれほどなかったとしてもやはりそこには厳然たる違いがある、ようだ。
 
住宅と非住宅を分つものについて、引き続き考えてみたいと思う。

場所に組み込まれること/設計が意味をもつ領域

去る24日金曜日は名城の卒計審査会だった。
毎年力作に多く出会えるので、とても楽しみにしている。
今年は力作とともにいい意味での「問題作」もあり見応えのある審査会だった。
私の担当授業は2年生なので、初めて自分の教えた学生と卒計で再会する年でもあった。
知っている学生というだけで意外と感情移入しちゃって冷静に見れない自分におどろく。常勤の先生の苦悩やいかにと思う。
 
惜しくも2位になった水口くんの作品は雪景色の再編集と題した造形センスが素晴らしい作品。ここにこれを設計すべき背景が最後まで今イチ分からなかったのだが、ありふれた既存の町のボキャブラリーを仔細に観察し読み取って、プログラムの必然性?そんなこと(笑)を吹き飛ばすくらいユーモアにあふれた魅力的な複雑系が立ち上がっていた。愛だな、と思った。
3位の濱口さんの作品は絵描きの町美術館と題して、名の知れた美術家ではない、愛好家によるその町の絵を集めた美術館をつくるというもの。建築としての完成度にはまだ頑張りどころがあったと思うが、着眼が素晴らしいと思った。
題材は灯台と石積みが印象的な伊勢辺りのひなびた海辺の町である。
なんだ日曜美術かと思うなかれ。ずっと愛好家に描かれ続けて来た町だからこそ可能な、その町にオリジナルな資質をよく汲み取ったコンセプトだと思う。そういう普通の人の創作もアーカイブすればそれは町の財産になるし、そうした営みを慈しむ視点に共感した。
1位の吉川さんの案は里山保存の反対運動により建設中途で廃線になった道路を小学校にコンバージョンするという作品で、現状は対立関係にある土木遺構/里山を、挿入された建築のプログラムが、相互に補完し合う関係に切り替えるという、社会の中で建築の役割を的確に読み解いた鮮やかな案だったと思う。
 

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今回は2つの極北ともいえる「問題作」があり、設計が意味をもつ領域というようなことについて考えてしまった。こうやって人に考えさせるというのは素晴らしいことで、問題作、はもちろん褒め言葉です。
 
川口くんの公私を越えた〜編集的観察地図は、自分の住む町で自分が収集した色んな情報をとにかく編集しないで全部展示するという作品。廊下まで使ってとにかく紙がだーーっと陳列されている。それ自体そもそも卒業設計のフォーマットを逸脱している。これも褒め言葉。
何らかのアウトプットに落とし込むべきなんじゃないかと皆から言われていたが、私はそれはどっちでも良くて、むしろ収集されている情報そのものにもう少し奥行きが欲しいと感じた。生活の道具とか生活時間のパターンとか、家の使い方、庭の使い方、職場と家の関係、仕事と町の関係…そうした、もっと彼自身しか感知し得ない情報を通して、そこで無意識に営まれている生活の様態が立ち上がってくるような、ものを期待したのだが、呈示されているものを見る限りまだビッグデータ的個人情報の域を出ていない。柳沢先生の言、情報を取捨選択する時点で既に編集は行われているというのは正にその通りで、だからこそ「自分が収集すること」に意味のある情報とそうでもない情報、についてもっと意識的になるべきだったとも思う。
しかし彼が町に対して抱いている愛着は大変大きく、そこから外れることは絶対にしたくないという所でスジが一本通っていて、そこには私は共感したし、可能性も感じている。場所に組み込まれた存在としての自分と、設計者としてつまり介在者としての自分とが鮮明に対立すること、を彼は敏感に察知したのだろうと思う。
 
もう一つの極北作品、柴田くんの娼婦の再犠牲者化への対策と売買春の再構築、はいわゆる儀式空間をテーマにした作品ですが、そのシチュエーションがかなりきわどいことで色んなものが浮き彫りになっていたと思う。
彼が設計したのはそれを通り抜けるという行為を通じて彼女たちが自身の物語を再構築する、ナラティブセラピーの装置だ。
生まれ変わるための儀式空間とか俗事が持ち込まれない「結界」というのは宗教的な装置として現に存在するが、それはそうした人々や状況を「包摂する社会」があってはじめて成り立つもので、表の社会とネガの関係ではじめて成立し、あくまでも受動的なノードとして存在するもののように思われる。
例えばうちの鳥居はガンダムモチーフです!なんて神社は基本的にない。鳥居を好きにデザインしはじめたら、そこにはなんら実体的な機能がないことがただ露になるだけで、絢爛な鳥居を手に入ると同時に鳥居の依て立つ基盤が失われてしまう。
だから設計行為が意味を持たない領域というのがあると思う。
個人の物語を再構築するための装置、あるいは個人的な儀式空間というのはきっと社会の中に完全に組み込まれているはずで、そうすると建築家の振る舞いにより設計するというより社会学的フィールドワークの末に発見する種類のものなのではないか。
柴田くんの作品はそこに踏み込んだという意味で意義がある。が、そのシチュエーション下で何を呈示してそれが説得力をもつのはなかなか難しいだろうなと直感的に思った。
 
川口くんの作品は場に組み込まれる主体と建築家が、柴田くんの作品は場に組み込まれる機能と建築が、両立しないのではないかという鋭い問いを投げかけてくれているように思う。
風土と完全に一体化した建築を、建築家は作れない。
 
卒業設計は課題とも実務とも異なり、自分でシチュエーションを発見・設定し、それに対して自らの設計行為を以て応えるという、かなり特殊な機会で、いわば設計そのものを設計するメタ設計行為が要求されている。
誰も教えてくれなかったことをどれだけ学べたかが評価されるという、いかにも倒錯した場だなぁと思う。そこが面白い。
 
いずれにしても、こうして自分が指導した訳でもましてや制作した訳でもない渾身の作品を、出来た所で現れてあーだこーだと言わせてもらえるなんて、本当に身に余る僥倖です。