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maki_yoshimura text

吉村真基(D.I.G Architects)建築についてのテキスト

住宅と非住宅を分つもの

過日、遅ればせながら諸江さんのLT城西2を拝見…さらに遅ればせながらその時に考えたことのメモ。
LT城西2は21人(!)が暮らす住宅。使われているのはすべて住宅の要素なんだけどそれぞれがちょっとずつスケールアウトしている。何せ21人ですから。
ぱっと見すべて住宅の要素で作られてるんだけど住宅とは明らかに別種の空間になってて面白かった。
特に2階は住宅というより小さな公共建築みたいな非住宅的スケール感。微妙に大きいんだけど大きいってことは一つの要素に過ぎず、きちんとナカ取ってる感じの寸法というか、その距離の取り方が住宅でありつつ住宅ではない空間を形成していた。
自分の家だとしたらちょっと物足りないかもしれないが、21人の一人にとっては大変気持ちの良い居場所だろうなと感じた。
この距離感は諸江さん独特である。諸江さんの住宅は独特なスケール感だなーといつも思うのだが今回はそれがハマった感じだった。
分厚い中央分離帯で隔てられている住宅建築と公共建築の間に、せまーいけれどもそのどちらでもないことが可能な中間ゾーンみたいなものはあって、それをアイテム使わず設計で、寸法だけで作れるとしたら、面白いかもしれない。
ちなみに21の個室は廊下に並列されているわけではなく3〜4室のクラスタになっており、日本の平均世帯構成人数が2.5人であることを考えると数的にはちょうど合っていると言える。
 
ところで、デカいシェアハウスを見たので同性婚がありなら複数婚もありなんじゃないかと思った。
一夫一婦制というのは男女かどうかはともかく1対1、これは完全人格同士の関係という幻想を前提にしてるような面がある。でも現実にはそんな風に一人でレーダーチャートを満遍なく満たすような人はそういないわけで、でも3人、4人掛け合わせれば結構いいとこ行くよ、みたいなことは往々にしてあるんじゃないだろうか。
…LT城西2ならはそんなユートピア的な状況も生まれそうな気がした。
 
LT城西2は住宅と非住宅の境界線を絶妙に示してくれていると思う。
住宅と公共建築は、プログラムの、敷地の、建物の、関わる人数の、すべてのファクターの大きさが違うため、そもそも比較の対象にならないのが普通だ。でも、どうやらそうした量的な違いがそれほどなかったとしてもやはりそこには厳然たる違いがある、ようだ。
 
住宅と非住宅を分つものについて、引き続き考えてみたいと思う。

場所に組み込まれること/設計が意味をもつ領域

去る24日金曜日は名城の卒計審査会だった。
毎年力作に多く出会えるので、とても楽しみにしている。
今年は力作とともにいい意味での「問題作」もあり見応えのある審査会だった。
私の担当授業は2年生なので、初めて自分の教えた学生と卒計で再会する年でもあった。
知っている学生というだけで意外と感情移入しちゃって冷静に見れない自分におどろく。常勤の先生の苦悩やいかにと思う。
 
惜しくも2位になった水口くんの作品は雪景色の再編集と題した造形センスが素晴らしい作品。ここにこれを設計すべき背景が最後まで今イチ分からなかったのだが、ありふれた既存の町のボキャブラリーを仔細に観察し読み取って、プログラムの必然性?そんなこと(笑)を吹き飛ばすくらいユーモアにあふれた魅力的な複雑系が立ち上がっていた。愛だな、と思った。
3位の濱口さんの作品は絵描きの町美術館と題して、名の知れた美術家ではない、愛好家によるその町の絵を集めた美術館をつくるというもの。建築としての完成度にはまだ頑張りどころがあったと思うが、着眼が素晴らしいと思った。
題材は灯台と石積みが印象的な伊勢辺りのひなびた海辺の町である。
なんだ日曜美術かと思うなかれ。ずっと愛好家に描かれ続けて来た町だからこそ可能な、その町にオリジナルな資質をよく汲み取ったコンセプトだと思う。そういう普通の人の創作もアーカイブすればそれは町の財産になるし、そうした営みを慈しむ視点に共感した。
1位の吉川さんの案は里山保存の反対運動により建設中途で廃線になった道路を小学校にコンバージョンするという作品で、現状は対立関係にある土木遺構/里山を、挿入された建築のプログラムが、相互に補完し合う関係に切り替えるという、社会の中で建築の役割を的確に読み解いた鮮やかな案だったと思う。
 

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今回は2つの極北ともいえる「問題作」があり、設計が意味をもつ領域というようなことについて考えてしまった。こうやって人に考えさせるというのは素晴らしいことで、問題作、はもちろん褒め言葉です。
 
川口くんの公私を越えた〜編集的観察地図は、自分の住む町で自分が収集した色んな情報をとにかく編集しないで全部展示するという作品。廊下まで使ってとにかく紙がだーーっと陳列されている。それ自体そもそも卒業設計のフォーマットを逸脱している。これも褒め言葉。
何らかのアウトプットに落とし込むべきなんじゃないかと皆から言われていたが、私はそれはどっちでも良くて、むしろ収集されている情報そのものにもう少し奥行きが欲しいと感じた。生活の道具とか生活時間のパターンとか、家の使い方、庭の使い方、職場と家の関係、仕事と町の関係…そうした、もっと彼自身しか感知し得ない情報を通して、そこで無意識に営まれている生活の様態が立ち上がってくるような、ものを期待したのだが、呈示されているものを見る限りまだビッグデータ的個人情報の域を出ていない。柳沢先生の言、情報を取捨選択する時点で既に編集は行われているというのは正にその通りで、だからこそ「自分が収集すること」に意味のある情報とそうでもない情報、についてもっと意識的になるべきだったとも思う。
しかし彼が町に対して抱いている愛着は大変大きく、そこから外れることは絶対にしたくないという所でスジが一本通っていて、そこには私は共感したし、可能性も感じている。場所に組み込まれた存在としての自分と、設計者としてつまり介在者としての自分とが鮮明に対立すること、を彼は敏感に察知したのだろうと思う。
 
もう一つの極北作品、柴田くんの娼婦の再犠牲者化への対策と売買春の再構築、はいわゆる儀式空間をテーマにした作品ですが、そのシチュエーションがかなりきわどいことで色んなものが浮き彫りになっていたと思う。
彼が設計したのはそれを通り抜けるという行為を通じて彼女たちが自身の物語を再構築する、ナラティブセラピーの装置だ。
生まれ変わるための儀式空間とか俗事が持ち込まれない「結界」というのは宗教的な装置として現に存在するが、それはそうした人々や状況を「包摂する社会」があってはじめて成り立つもので、表の社会とネガの関係ではじめて成立し、あくまでも受動的なノードとして存在するもののように思われる。
例えばうちの鳥居はガンダムモチーフです!なんて神社は基本的にない。鳥居を好きにデザインしはじめたら、そこにはなんら実体的な機能がないことがただ露になるだけで、絢爛な鳥居を手に入ると同時に鳥居の依て立つ基盤が失われてしまう。
だから設計行為が意味を持たない領域というのがあると思う。
個人の物語を再構築するための装置、あるいは個人的な儀式空間というのはきっと社会の中に完全に組み込まれているはずで、そうすると建築家の振る舞いにより設計するというより社会学的フィールドワークの末に発見する種類のものなのではないか。
柴田くんの作品はそこに踏み込んだという意味で意義がある。が、そのシチュエーション下で何を呈示してそれが説得力をもつのはなかなか難しいだろうなと直感的に思った。
 
川口くんの作品は場に組み込まれる主体と建築家が、柴田くんの作品は場に組み込まれる機能と建築が、両立しないのではないかという鋭い問いを投げかけてくれているように思う。
風土と完全に一体化した建築を、建築家は作れない。
 
卒業設計は課題とも実務とも異なり、自分でシチュエーションを発見・設定し、それに対して自らの設計行為を以て応えるという、かなり特殊な機会で、いわば設計そのものを設計するメタ設計行為が要求されている。
誰も教えてくれなかったことをどれだけ学べたかが評価されるという、いかにも倒錯した場だなぁと思う。そこが面白い。
 
いずれにしても、こうして自分が指導した訳でもましてや制作した訳でもない渾身の作品を、出来た所で現れてあーだこーだと言わせてもらえるなんて、本当に身に余る僥倖です。