椙山女学園大 Super Review 2019
ちょっと前の話になりますが、10日の日曜日は椙山の卒制審査会でした。
5名の外部審査員によるレビューが行われました。
展示会場は設計あり制作あり論文ありと多様な成果物で溢れていて、その中から卒業「設計」に該当するものが審査対象になるという形でした。
この前日に建築、インテリア、プロダクト…といったそれぞれの専攻内で既に審査は行われており、仮に専攻を縦軸と捉えるならこのSuperReviewは「設計」というアウトプットの形式を横軸として専攻を横断して審査を行うものでした。
愛知淑徳大でも卒業制作、卒業設計が同じ土俵で審査されていましたが、それはどちらかといえば学生の自主性に任せた結果いろんなものが出て来てやむなしとなった状態(笑)。対して椙山のSuperReviewはもっと意識的に専攻間を架橋するという意図を持って企画されている印象でした。デザイン女子の学内版という理解で正しいでしょうか。
今回は評価することの難しさを痛感した審査会でした。評価軸というのは様々で、その時のライブの議論の中で、如何様にでも変わり得ます。
結果、最優秀は斎藤あずささんの廃村計画でした。五十年前に人間が住まなくなった(が、現在第3セクターの管理下にある)廃村を、動物と共に暮らす場所として捉え直し、人間の世界としては徐々に終わらせてゆく計画です。考えてみれば建築計画ってどこ見渡しても人、人、人しかいない。奇しくもjt1月号巻頭で石山さん妹島さんの両者が動物のいる世界について言及していましたが、動物という視点の切り替えにハッとさせられました。率直に言えば設計そのものはまだ物足りない面があるのですが、射程の遠さ深さは一番だったと思います。
一方、実力で言えば一番は原口さんだったと思います。エントリー中、唯一全国レベルの設計力といって差し支えない力を持っていました。
設計で凌ぎを削る雰囲気があまりなく皆仲良く和気藹々、いやむしろそこから外れることがリスクにもなるような椙山の中で、その中にあえて入らず空気を読まずにやってた彼女は本当にすごい。彼女の孤独に思いを馳せます…独りやる、という選択をしてきたことは、結果にかかわらず確実に彼女の胆力になっていくと思います。
SuperReviewではインテリアと建築の卒業設計を同じ土俵で審査します。双方の作品をフラットに見比べることで、それぞれの設計行為が暗に前提としている評価体系の違いがくっきりと見えました。両者においては卒業設計におけるテーマの位置付けが大きく異なります。ざっくり言えばテーマのための設計か/設計のためのテーマか、ということになると思います。
建築の枠組みで高い評価を受けやすいのは圧倒的に前者であり、設計よりむしろ設計を可能にする前提条件のつくりが問われるようなところがあります。
原口作品が頭一つ抜けた設計力を示しつつ、総合評価で最優秀とならなかった理由もここにあります。
大学の建築教育の卒業制作においては設計行為を可能にする前提の構築こそが不可欠です。極論を言えば前提がきちんと構築されていれば、設計自体はなくてもいい。
ここでよく問題になるのが、大学建築教育の卒業設計においては、大学で教えていないことがもっぱら問われている、という議論です。
それについても考えるきっかけになったので、別稿で書きたいと思います。
最優秀 斎藤作品の朽ちていく模型
吉村真基建築計画事務所|MYAO 主宰
ー名古屋を拠点に活動する建築設計事務所です。
愛知淑徳大学三年後期課題最終講評会
昨日はゲストに門脇耕三さんを迎え、愛知淑徳大三年生の後期課題最終講評会でした。
淑徳三年の後期課題は、前年までの数年間大きい複合施設課題と原寸を作るミニ課題を組み合わせて半期1.5課題の構成でしたが、やはり中だるみ感がありということで、今年は試験的に大課題2課題に変更されました。しかも今年は図らずも受講人数が例年の4倍というパンデミックが(笑)。エスキスも必然的にテンポよく回す形になり、一人一人の学生とじっくり…という時間がなかなか取れない中で、半期があっという間に終わっていくことになりました。
例年ののんびりした雰囲気と打って変わって、みんな人並みの課題地獄を味わったのではないかと思います。
門脇さんの講評は、なんかイイネ的なふんわりしたものも即座に構造化しロジカルな文脈にきちんと乗せて作品を評していく姿勢。学生の課題内容とレベルに合わせて都度的確な語彙を繰り出すところはさすがでした。
2課題ということもあり、最後のプレゼンのリファインがイマイチという評もありましたが、人数が多いこともあって、妙に形態が先行する例年の淑徳大の傾向が弱まり、テーマ性やプログラム、環境など設計の方向性が多岐に展開したことはとても良かったのではないかと思います。
終わってみて思うこと…このくらいのスピード感が個人的には馴染むなぁと思う一方で、前年までの緩いペースは相当数誰でも付いて来れる良さもあったなと。大人数×課題負荷高だと学生間の偏差がハッキリ開くのがわかります。できる学生は目に見えて力がつく一方で、全く付いて来られない学生も一定数出てしまいました。
そこで、高負荷の課題設定に典型的なマスプロという自分の学んで来た環境を思い出して、そういうことだったんだな…と思ったわけです。設計実習の授業において、できる層とやる気すらない層がはっきりと分かれていくのは必然と思っていましたが、それはむしろ大人数一絡げにして高負荷の課題をガンガン与える授業形態の結果であり、設計そのものを学ぶ工程における必然というわけではない、逆に言えば授業自体の組み方でだいぶ解決できる部分もあったのだろうと。
短期間で高負荷かけて、というやり方はかつて建設業界が成長産業だった時代における短期での人材育成の意味が大きいのだろうと思います。でも今は建築設計が活かせる場は多様になっているし、競争ベースでなくゆっくり時間をかけて誰でもできるように建築設計を学べる場があってもいいのかもしれないな、と思ったりしました。
ただ、高負荷の課題をスピード感もってやると、できる学生は本当に伸びるし、それは見ていて本当に楽しいです。そしてその局面においてはスピードがかなり大切なんですよね。。
写真は学生の作品です。
吉村真基建築計画事務所|MYAO 主宰
ー名古屋を拠点に活動する建築設計事務所です。
具体的な闇
1ヶ月ほど前の話になりますが、アリス紗良オットの演奏会に行きました。
アリス紗良オットを聞いた最初はショパンのワルツの小品だったと思いますが、いつものショパンとは全く違う、内向的でため息のような解釈がとても新鮮で現代的だと思っていました。華麗なはずの和音から、何かざわっとする感覚が立ち上るのです。
演奏会のタイトルは「Night fall」といい、光と闇が溶け合う刹那の時間、逢魔が時がテーマでした。人間にも光と闇の部分があるんじゃないか、と最初のMCで彼女自身が語っていました。それ自体は割と一般的な話でもあります。ふむふむとあまり気に留めずに聞いていました。
生で聴いた彼女のピアノからはこの世のものとは思えない不穏さが立ち上り、期待を裏切らない凄さでした。あんな美しくも気味の悪いピアノは他に聴いた事がありません。私は彼女がピアノで引き摺り出す「具体的な闇」に圧倒されました。ざわっとしていて、それでいて甘美で引きずり込まれるのです。
それは私たちにいつも隣り合わせにあって、実はかろうじて落ちずに済んでいるだけなのだといきなり気付いて、背筋が寒くなります。狂気にも少し似ています。
引きずり込まれる/出される…彼女のピアノには、何だか体が動けなくなる暗示が漂っています。
夜のガスパールは本当に圧巻でした。「悪魔が会場を飛び回る」という評が書かれていましたが、ざわっとした気味悪さがだんだん輪郭を持って生き生きとし始めるのです。しかし不思議なことに「飛び回り」始めると、ざわざわした感じはなくなりむしろ手応えというか希望に似たものを感じるようになります。
演奏会の後、2日位変な頭痛が抜けない、という現象が起きました。
耐えきれず、2日目の昼間に横になったら、凄く気味の悪い女が出てくる夢を見ました。一見普通なのですが、内臓がどろどろに溶けているのがなぜかわかるのです。女は何か言いたそうでしたが、何も言わずに去って行きました。内臓が溶けているので妙な歩き方でした。
あれは私だ…と思いながら後味悪く目覚めたら、頭痛は消えていました。
あのピアノに何かが引きずり出されたとしか思えないのです。
アリス紗良オット、録音でもその美しい不穏さは十分味わえますが、一度生で聴いてみるべし。ファウストの世界に、悪魔に会えるよ。
吉村真基建築計画事務所|MYAO 主宰
ー名古屋を拠点に活動する建築設計事務所です。
読書会キックオフ
昨日はお披露目前のヴェロシティ新事務所「山王のオフィス」で建築系読書会キックオフという贅沢をしました。
新事務所は意外に建て込んだ宅地にキッチキチに広がる伸びやかな白い地面、様々な矛盾を飲み込んで新しい場を作る屋上が良かった…建て込んだ住宅地への住宅地の屋根のあり方が面白くて、改めてヴェロシティは屋根の建築家だなと。
オープンハウスは11月に改めて行うそうです。
しかしここで忘年会やるなら命綱がいりますね(笑)!
読書会のお題はまずはオーソドックスに「建築の多様性と対立性」ロバート・ヴェンチューリです。
参加者は大人と学生が半々くらいだったので、オトナにいきなり章ごとの要約を割り振るという無茶振りをしてみました。自分含めて相当忙しい中のみなさん応えて頂いて…ありがとうございました。次回からは学生も要約に入ってもらう予定です。
個人的には準備不足でヒヤヒヤでしたが、諸江さんが全部救ってくれました(笑)。
読書会の白眉は「え、みんな読んだのこれじゃないの?」つって英語原版大型本を出してくる諸江さんの体を張った仕込みと図版159のeとfって何が違うんですか?っていう学生の尤もなツッコミです。だよね(笑)。
ヴェンチューリ、今回改めて読んでみて学生の時には理解できなかったこともわかったり新しい発見もあり、読んでみるもんですね。学生時代以来の読書会でしたが楽しかったです。やっぱみんなで読んで話すのは楽しいですね!
乾杯してますが、硬派な読書会なので一部お茶です(笑)。
月一くらいで開催します。興味のある方は是非!
吉村真基建築計画事務所|MYAO 主宰
ー名古屋を拠点に活動する建築設計事務所です。
新建築住宅特集6月号に掲載されています
新建築住宅特集6月号に設計監理に携わった「前後の家」が掲載されています。
独立後の事務所名で初掲載です。
今号は「木造の可能性」という特集タイトルの木造特集。
木造の「可能性」とありますが、スーパー木構造のような一見木造に見えない技術でなく、在来工法の範囲に収まる技術を用い、その素朴な架構の分節や意味をずらすことによって独自の空間を生み出している作品が多いと感じました。
そういう意味で今回の特集には、いわゆるエンジニアでもなくデザイナーでもない、名付ける者としての建築家、再定義する者としての建築家、という側面を強く感じます。
木の性能的な限界にチャレンジしていく方向ではなく、木造という見慣れたエレメントの集積にどれだけ豊かな記号的世界を見出せるか。
実はその主題において「木造」は代替可能な主題で必要条件ではないが、やっぱりここは木造でないと面白くなくて、なぜなら木造というのが、一見ありふれた既存の要素に溢れる「読み取られるべき世界」を提示するからだろうと思います。
巻頭の吉村理さんの作品は既存の大和棟の内側に新しい架構を作るという計画で、これはすごい。大工さんは屋根の下で材木の取り回しにも苦労するような状況だろうし…これはよくやったなと。既存と新たなエレメントの間に空間が生じ、それに名前を与える。そのことで既存も新たに加えられたものも再度定義されていく。
巻頭2作目の佐々木さんの竪の家は、実際に体験したこともあり、追体験する感じでじっくり読みました。とにかく構造と空間のプロポーションがすごく綺麗なんです。これはいわゆる雑多な木造世界を再定義する作品ではなく、構造から攻める作品。しかしスーパー系というより削ぎ落とす方向性。木造をえ?っていうくらいシンプルな形で実現しています。仕上げと呼べるものがほぼないのですが、それでも余計なものが何一つない。
佐々木さんの巻頭論文も興味深く読みました。佐々木節からボケとツッコミとアメリカンジョークを削ぎ落とすとこうなるんですね(笑)。
私も精進します。
あと、角材の筋交い、流行りすぎ(笑)。
吉村真基建築計画事務所|MYAO 主宰
ー名古屋を拠点に活動する建築設計事務所です。
幻庵
2006年のmixi投稿より/榎本基純氏の訃報に際して
往年のmixiを再訪するのがちょっとしたブームになってまして(笑)12年前の投稿を救出しました。
■■■
2006/10/25
恩師の代表作である「幻庵」のクライアント、榎本基純氏が突然の死を迎えられたそうです。
実は、榎本さんには数ヶ月前幻庵を初めて訪れたときにお会いしました。
幻庵は写真でみる印象とは妙に違う、桃源郷のような不思議な場所でした。美しいような、やさしいような、かなしいような空間です。
石山さんは「俺が死んだら幻庵しか残らないだろう」と言っていました。そのことを榎本さんに伝えると、「そんなことを言っていたんですか。石山さんがねえ。…そうですか。」と首を振っていました。
外部も、内部も非常にきれいで、そればかりでなく庭もよく手入れされているように見えたので、「とても大切にされているんですね。」と言うと、いやいや何もしていませんと言うのです。
そんなはずはないと思ったのですが、どうやら本当のようでした。
幻庵はいわゆる建築とはかなり異質な物でした。
わたしのそれまでの石山修武観がまったく見当はずれだったことに気が付きました。幻庵については、装飾を排除しないところに石山さんの優しさが垣間見える…というような言われ方をすることもありますが、わたしにはそこにあるものが装飾であったとも思えないのです。
道に落ちているネジや金属の破片を拾っては集め、集めた部品でいつかロボット作ろうと思っていたという阿部仁の少年時代の話がありますが、幻庵で感じたものは、しいて言うならそれに似ています。
藤森照信が、人間は採集に戻っていくんだ、とどこかで言っていた記憶があります。道端で缶カラを集めているおじいさんの顔なんかは妙に輝いているんだそうです。採集は楽しいんです。
幻庵に満ちていた建築との間の不思議なズレは、採集のヨロコビではないかという気がします。
石山修武と榎本基純が世界中から拾っては集めたいろんな「部品」が事物として結実したものが幻庵になのではないかと。
これ、きちんと説明するにはまだ大分時間がかかりそうです。
幻庵の一ヶ月後に今度は川合健二邸も訪れるのですが、これもまた、衝撃的な建築でし
た。
幻庵を建築と呼ぶべきかどうかについては迷いがあるのですが、川合健二邸はハッキリ建築と呼べます。
突然の訃報、驚いています。
ご冥福をお祈りいたします。