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吉村真基(D.I.G Architects)建築についてのテキスト

建築における部分と全体

今年の名城2年前期第二課題、合同講評会を終えて個人的に考えたことの備忘録。
教育的な内容は特にありません(笑)。
 
第二課題は大学近くの敷地に地域と学生の交流拠点を設計するというもので、手がかりとして学生にとって想像しやすく自由度の高いプログラムと、同時にかなり読み込み甲斐のある敷地が与えられるという最初の設計課題としては理想形とも言える課題です。
「成長する空間・場」というタイトルが与えられていますが、これ自体が私の解釈ではメタメッセージ解読の練習になっていて、ここで「成長する」の文字通りの意味にとらわれるとちょっとヘンな方向に行ってしまいます。「成長する」は学生が応えるべきテーマではなく、あくまでもざっくりとしたポジティブイメージの象徴、もしくは、出題側が抱いている課題全体の大きなゆるい方向性なので、ここはその全体的なメッセージだけを受け取れば良いのです。その上で自分のコンセプトと上手くリンクした時は、キーワードとして取り入れても良いです。
大事なのは「空間・場」の方。このワーディングそのものが重要です。
まずはハードとしての構えや整合性や機能や性能にとらわれるのではなく、建築のスピリット…空間や場を設計してほしい、既存のタイポロジーにとらわれず、空間や場そのもの、学生それぞれの初源の空間に取り組んで欲しいという出題側の意図が込められていると思っています。
 
今年は初めて4クラス合同の講評会を行うことが出来ました。
去年から午前クラスの諸江さんとは勝手に合同講評会を行っていたのですが、学生は午前も午後も別の授業があるため実質的には午前と午後のインターバルタイム=昼休みしか合同にできる部分がなく、勿体ないな〜と思っていました。2年生ってまだ授業がいっぱいあって忙しいんですね。。。せっかくの機会がグダグダになっていたのがとても勿体なかったので、今年は別日を設け、結果的に4クラス合同という素晴らしいことになりました。
 
4クラスの作品を寄せ集めてみると、先生ごとの傾向がハッキリわかるし、自分が何を教えているのかいないのか、突きつけられることになります。
生田クラス:構成を踏まえ、空間的な見せ場がありつつそこに終始せずプレゼンにも手を抜かない。バランスの良い作品が揃っててさすが学生指導の水準の高さを感じさせました。王道です。
どうしたらああやって上手いこと学生を導くことができるのだろうか…。
中では、4枚のスラブと屋根で場を作っている作品が印象に残りました。敷地に対するスラブ配置のバランス、階高の違いによるピロティ空間と上層の内部空間の緩急、そこにかかる屋根の大きさのリズム感がとても良く、全体として無理のないボキャブラリーで空間にリズムが生み出されていて、かつ敷地に対する建物のスケール感がバッチリでした。もはやプロっぽい作品。

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向井クラス:図面、模型、シートの完成度、設計した場で起こるであろうソフトにまで言及している作品が多く、指導の熱量がすごい。同時限の授業だったのですが、私が全員のエスキスを終えて帰る時(だいたい18時くらい)に、毎回先生のクラスは半分くらい残っていてちょっと後ろめたい感じで帰ってました(笑)。聞いたところによると毎回19時〜20時はふつう、提出前は22時までやっておられたそうです…!ちなみに定時は16時20分(笑)。まぁ実際、40人弱を2コマで見るのはほぼ不可能です。。
印象に残ったのは最優秀クラスタではなかったけど、ボックスが貫入するシリンダーの周りを帯状の構造体が壁になったり床になったりしながら取り巻く作品。シリンダーに出たり入ったりする帯とシリンダーに貫入するボックスの関係が面白い。シリンダーはおそらく何かの境界を象徴しており、その間を行ったり来たりすることに意味があるのです。全体として完成度を重視する向井クラスでは異色でした。こういう人はうちのクラスに来ると良かったかもね(笑)。

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諸江クラス:作品がどれもきちんと建築になっていて、敷地の読み込みから立ち上げる建築的/構築的でまっとうな指導プロセスを感じさせます。諸江クラスは教室が同じこともあり、模型だけは全作品をざっと見てまして、本当に粒揃いです。
諸江さんの指導は建築教育のメインストリームだと思うのですが、彼のクラスには何故か毎年お約束のように規格外/制御不能の変わりモノが混ざっていて諸江さんは憔悴しきっています(笑)。
そして彼らが例外なく諸江さんをとても慕っているという不思議…(笑)。
その様子を目にするにつけ、諸江さんの中には自分と同じクリエイターに対する立場を越えた不変のリスペクトがあって、それが彼らをして慕わせるんだろうと思います。そう、建築の前に人は平等です。
諸江クラスで印象に残った、複雑系スキップフロアの作品。一人だけ1/50模型!デカい。断面的だけでなく平面的にも広がる複雑なスキップフロアが無理なく破綻もなく良く解かれています。
縦横に上る階段が楽しげでとても良いです。かなり気に入っているので、これだけ写真2枚(笑)。

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今期、諸江クラスのミスター制御不能の作品(笑)。直線/曲線の二重になった壁が螺旋状の動線を作り、その道程でアウターウォールがぐにゅっと内部に押し込まれることで諸室が出来ている…ということですが、もはやよくわからない(笑)。
模型はドラキュラ城が爆撃を受けた後みたいに見えますが(笑)、目指していたのはつるっときれいなものらしいです。(当初は3Dプリンターで作ろうとしていた。)

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しかも、彼が後で出て来るうちのクラスのミスター難解と仲良しという…濃いだろぉ、今年は(泣)。
 
うちのクラスは授業内では、敷地の特性を読み込むこと、プログラム=機能同士の「関係性」を設計すること、等メインストリームをかっちり踏襲して伝えていたつもりでした。が、並べてみると他の先生からは「まきさんのとこは自由ですねーーwww」みたいな反応で(汗)。いやいや、そんなつもりは…と思いつつ、やっぱりそうなのかな、とも思いつつ、出来不出来は置いておいて私が特に色々考えさせられた作品を中心に振り返りたいと思います。
ちなみに諸江さんの全体評↓
 
まずはミスター難解(笑)。都市の異なる街区グリッドとグリッドの拮抗点として「出来てしまった」三角形という敷地の特異性とその生成過程に目を向け、同じような方法=様々なグリッド同士の間に偶然発生する不定形な隙間=非計画的な場所をつくることで、建築に特異場を生成するようなダイナミクスをもたらすことができるだろうか、という仮説に挑んだ作品。
私なりに彼のコンセプトを噛み砕いたつもりですが、書いてて既に難しいです(笑)。
逆説的ですが、こうした一見ランダム、非計画な計画ほど、見えない骨格が重要になるということもよくわかります。
つまり見えないけど全体を支える骨格がないと、特異点も可視化できないという…。
そう言う意味では全体が若干均質的だったのが、よくもわるくも作品をより難解にしていたと思います。
講評の際は、非計画といいつつもすごく計画的に見える、とか、非計画といいつつもだからこそさまざまなことを綿密に計画しないといけないんじゃ?という至極まっとうな評がありました。

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常に都市を見据えているような視線がとても良いのですが、空間はもっとどこかに説明不可能な色気があってもよかったかなぁと思うところでもあります。方法論がどこかで破れる瞬間があったら、建築の中に都市的なものが裏返って現れている、そのスリリングさがもっと出たような気がします。
それは、しかし計画です。自分で作って自分で破る。
それをしなかったのはもしかすると本人の誠実さなのかもしれないですね。
これは都市的なものとして、つまり遅れて立ち上がって来るものとして建築をつくる、という一見「設計」とは真っ向から対立するような方法に見えますが、ある意味、私にとって空間の魅力というのは設計とはまた別個に立ち上がって来る何かでもあると思えるんですよね。それは空間と私の間に、その瞬間に起こる非常にパーソナルな現象であり、そう言う意味では、計画しつつもその計画の外で建築が立ち上がることは十分ありえると思う。
建築にまつわるすべてを計画することは不可能だけど、やってる以上すべて計画しないことはありえないわけで、つまりはこの建築の中であるいは少なくとも本人の中で、何か計画で何が計画でないのかが、もっと可視化されている必要があったのかもしれません。
 
しかし、この部分と部分の「間」に立ち上がるもの/部分と全体の関係、というのは私自身の興味の中心でもあり、今回のクラスの作品を概観すると、かなりその傾向が強く現れてしまったな…と思います。
全体構成から切り分けていって部分が演繹的に決定された計画よりも、部分が集まって偶然出来たかに見える全体の方に魅力を感じる。とはいえ部分を積み上げる際になんとなく目指している全体があるから、全体が部分よりも必ず遅れるということではないし、むしろ部分と全体は、全く等価に、同時に立ち上がるもの、という気がしています。
 
この二層構造体は、作品としては稚拙さもありますが、実は難解くんが作品の中でやりたかったことが偶然できてしまっているかのようにも思え、建築の有り様としてなかなか面白いと思っています。

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部分と全体の関係が緩くて、それこそ互いにあまり関係のない部分が寄り集まってなんとなく出来てしまった全体があり、その出来た全体によってまた新たな場所がうまれるという、建築の生成過程が一つの建築の中に混在していて、不可思議な場を作っています。全体のかっちりとした枠組みはあまりなくて、何か関係性だけが、生成の現場だけがあるような様相になっています。
下の小さいボックスの集合体は実は内部でゆるゆると繋がっていて、そこでもまたなかなか面白いシークエンスの展開がありそうなのですが、そのあたりは全然プレゼンされてません(笑)。見せ場のいっぱいある作品なのにもったいない…。
講評では、わかる…けど上のアレはちょっと頂けないでしょう、という至極まっとうな評がありました。
でも、構造体と構造体の間に場が生まれつつある、ここはすごく魅力的です。
その面白さを本人が分かってるといいんですが(笑)。
 
次は個人的に、部分と全体の関係について、気付かされた作品です。

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この作品、エスキスの際に見ていたのは下部の積層で出来た壷型の部分しかなくて(単に途中だっただけだと思いますが)、そっかガンダムベースかーと思っていたのですが、提出時にはじめて上層部分が乗った状態を見て、あ、建築になった!と思ったのです。
ちなみにガンダムベースとは例年一人はいるガンダム基地っぽい造形の作品で、私としては建築ぽいけど似て非なるもの、を意味しています。
何がこの作品を建築せしめたのかといえば壷型が一度収束した後その上に乗った三角部分なのですが、要はこれが下の構造体と似たボキャブラリーを用いつつ、そのシンメトリーの構成を破ってイレギュラーなものとして現れたことが重要です。
その一点で建築になったと感じたことで、ガンダムベースと建築の違いはなんだろうと考えるに至りました。
 
現段階の仮説ですが、両者の違いは部分と全体の関係性にあります。
私がガンダムベースと称しているものは、全体が何かを象徴したり高度な機能や性能を有している為に全体性が強く、部分と全体がより緊密な関係になっているものです。そこにおいて重要なのは全体で、部分は専ら全体に奉仕するものとして扱われます。つまり、よりメカに近い状態です。極限にいけば部分というより部品ですね。
でも建築における部分と全体の関係はそうではない。部分は部分としてそれぞれ個性があり、意味のある部分が寄り集まって形成されるのが建築における全体です。
…と、少なくとも私は考えている、ということに彼の作品の跳躍を目にしたことで、気がついたのです。
だから、全体の意匠がメカっぽくてもガンダムベースでない建築は十分ありえるし、ホワイトキューブを模していてもガンダムベースになってしまう場合もありえる。
 
 
翻って見れば、これはそもそも建築というより都市における部分と全体の関係に近いのかもしれません。
意味のある部分と部分の間に偶然できる何か、部分と部分の集合体として立ち上がって来る何か、に建築としての面白さを感じています。立ち上がって来る、といってもそこに文字通りの時間的な遅れがあるわけではなく、建築としては同時に存在するんだけど、でもその都度現象するかに見える…つまり他の同時的な可能性の存在を常に感じるということなのかもしれません。
時間を越えて、常にその都度、場の、空間の生成現場になっている、そういう建築に憧れるし、そういうものを作りたい。
 
というわけで、今年も示唆に富む作品にたくさん出会えて、よかった。面白かったな。
ここだけの話ですが、うちのクラスの作品が一番良かったよ(笑)!
 

jt2017年6月号 全作品レビュー

今月号の住宅特集はかなり良い特集だと聞いて、久々に購入。
読み応えありすぎだったので、自分のトレーニング兼ねて全ての作品をレビューする、というのをやってみた。
今回は「大モノ」が数作品あるので、それらについての言及は散見するが、全部について言及している人はまずいない。「大モノ」については色々と言及しやすく楽しくやれたが、やってみて意外なほど訓練になるな、と思ったのは全作品という点。
私の勉強不足ゆえに中には読み解きにかなり時間を要するものもあったが、どの作品にもそれぞれ固有のクリエイションの端緒と「誤読」のフトコロがある。なんてことは当然なのだけど、これを短くても文章にしようとするといつも使ってないところを使って意外と苦戦したり。だから筋トレ。作品をぱっとみたときに「おお、なるほど、この作品はアレだな、アレ」と思った「アレ」があまりに漠然としていることに気がついて、ハッとする。
雑誌的に眺めるだけじゃなく、たまにはこうやって建築をテキストとして読み解くのも楽しいです。jtの良い所は物量。一作品をじっくり…じゃなくて作品に次ぐ作品を短時間でつぎつぎに読む。
勉強になったので、これから毎月やってみようかと考えている。
媒体を変えるか、固定するかは検討の余地あり。
 
同じ設計者として、批評はしても批判はしない。やたら褒めるだけというのも出来れば避けて、できるだけニュートラルな読み解き、出来れば誤読を目指す、ということをルールにしました。
 
ツイッター仕様になっているので微妙に語尾がまるめてあったりします。
 
House&Restaurant 石上純也
この現場にはひたすら驚嘆。例えるなら別の星から来た生物が、二本の足で歩くこと、食べること、言葉といった人間の営みや、空から雨が降ることや風が吹くこと、地表が土で覆われていることなどにいちいち驚嘆しその驚きのままつくったような建築。
ここでは建築が社会とか歴史とかを飛び越えて、まったく異なる位相に直に接続しているように思える。空間という言葉の定義が別種のものに響く。異星人は地球の空間ではなく時間の存在に驚いたのかもしれない。21世紀の地層にこの建築を発見することになる数百年後の考古学者を混乱に陥れそう。
 
弦と弧 中山英之
とても不思議な建築。建築が設計されながら「解体されている」と思えた。
テキストを読むと、建築の中でモノや人や人の感覚すらも異物にならないように、すべてのものを等価に扱うというストイックな姿勢があることがわかる。結実したものは空間が唐突に展開していくような建築になっている。カメラをパンしてるのにパッパっと切り替えたようなシーンが連続する。
ここでは空間とそれを支える構成とディテールとそこに想定される機能とそこに置かれるものを、つまり設計と設計から生み出されるもの、設計でないもの、を同時生成する、というメタ設計が存在している。分布させる、というワーディングが興味深い。
 
川崎の住宅 長谷川豪
大いなる他者としての床下の斜めプレートと共に生活する住宅。少し前まで住宅は生産・社交の場でもあり、必然的に他人が出入りする場であったため、住宅自体が他者である必要はなかった。今は住宅といえば専ら他人でない者同士の空間になってしまったから、住宅自体が他者となる
そのことは個人に恩恵をもたらすかもしれないし、あまり関係がないのかもしれない。が、確かにその方が自己の欲求を最大化した自家中毒的な住宅よりも、人と住宅が風通しの良い関係でいられるような気がする。
 
光と翳の家 坂茂
構造が面白い。構造を起点とする建築の「建て方」におけるヒエラルキーをフラット化する試み。構造と光を制御する装置を一体化し構造が二次部材的な表れ方をしている。工法の特性を生かして外形はシェル。壁、屋根だけでなくスラブも同じ工法で作りきったロの字構造が凄み。
 
心音のいえ 高崎正治
これも驚嘆。異界からの言葉を紡ぐような建築。今月のjt濃すぎ…。よく見ると水平垂直にグリッドが張られその各ブロックがそれぞれ意味に溢れた空間として構築されていることが分かる。この中心のないカルテジアングリッドの存在が既知の高崎建築と大きく違うような気がする。
縦方向には大きく三層だが層の間に「欄間」の層があり、ここが様々なメッセージを孵化するレイヤーであるように感じられる。同時に空間的にはこの層が建築全体を重力から若干開放し、光に溢れた魅力的なものにしていると思う。
 
荻窪の住宅 マウントフジ
これも建て方におけるヒエラルキーのフラット化。構造/仕上というヒエラルキーをCLT版というモノコックな要素に圧縮することで建て方の手順が中抜きされ「構え」だけが残る。家型フレームがイレギュラーに陥没して構えを崩しそこから空や光が入ってくるのがチャーミング
 
IRON Gallery 梅沢良三+新関謙一郎
鉄の建築。構造と仕上、サッシ、手摺などの二次部材に至るまで鉄。様々なレイヤーを鉄という素材で串刺しすることによってその素材性が際立つ。この作品では鉄という物性を通した、建築の建て方におけるヒエラルキーの再編が目指されているように思う
 
住吉の家 堀部安嗣
放射状垂木の方形屋根。私、修行がたりんな…以外の感想が出て来ない…土地や施主といった他者に身を以て向き合い建築の微細な質をその他者に向けて調整する。隅木と垂木の間のヒエラルキーを解消するための僅か数十ミリの攻防と隅部の開口によって矩形の中に放射状の空間性が現象
 
西新井の家 奥山信一
中心のヴォイド空間に住宅の様々な機能が立体的に紐づけられている。いかにもなスキップフロアという大仕掛けを使わずにでも場所によって床のレベルを細かく調整することでオープンな1階と諸室の並ぶ2階が立体的に繋がるというのは高度な手法だと思う。理想型の残像
 
掬光庵 MDS
黒い。黒いけど黒の色よりもツヤの印象が強い、文字通り光を掬い取るような住宅。螺旋状の動線と呼応する風車型の方形屋根の架構。螺旋の動線上に諸機能が無駄なく配置されておりきっちり納まったプランの印象が強いが、空間は風車型架構の屋根で覆われて大らか、気持ち良さそう。。。
 
内と外の家 フジワラテッペイ
骨の提案を通して住宅に中間的領域を呼び戻すことの可能性を考える作品。あるいは住宅そのものを中間的領域として捉え直したいということなのかも。故に、特徴的な軸組をまず設定した上でそのフレームを自ら読み替えるという手順を踏んでいる、ということだろうと思う。
 
GableRoofHouse アルファヴィル
連続する切妻ボリュームの角度を45°振るというごく単純な操作によって驚く程鮮やかに複雑な空間が展開する。4つのうち2つは総2階だがこの介入によって2階が自然に開き2階床の下にいても切妻の空間性が感じられ。特異点挿入のバランスがさすが。
 
TopologicalFoldingHouse 山口隆
メビウスの輪/一つのプレートが絡み合い床と屋根に分化している。一方プランを見るとガランドウVS諸室の2つのボリュームの組合せ/オーソドクスな手順をベースにしていることがわかる。建築の生成のストーリーを組み替える設計が面白い
 
HOUSE BH 萩原剛
リビングとなるメインの空間に諸室が吊られる。に留まらず様々な要素がすこーしだけ浮いた状態を保ち、全体が浮遊感のある空間になっている。大小の見せ場がリズミカルに展開し、飽きさせないというか、プロを感じる。ウチら雑草だな…とうちひしがれることしばし。。
 
芦屋の家 山﨑壮一
隅切のある角地に扇状に屋根を広げ、その屋根と壁の間がスッパリと切れている。コアから垂木が狭いピッチで放射状に外に向かう形状になっていることが、扇状に開いたこの場所の空間性と呼応していて説得力がある。
 
大屋根の家 甲村健一
タイトルは大屋根だが「大天井」が面白い。屋根即天井ではない。天井は直射を和らげつつ奥まで光を届ける「反射板」である。しかもフローリング仕上である。だから天井は屋根に属するのではなく反射の関係を通して床と対の存在として捉えられていることがわかる。とても興味深い
 

住宅と非住宅を分つもの

過日、遅ればせながら諸江さんのLT城西2を拝見…さらに遅ればせながらその時に考えたことのメモ。
LT城西2は21人(!)が暮らす住宅。使われているのはすべて住宅の要素なんだけどそれぞれがちょっとずつスケールアウトしている。何せ21人ですから。
ぱっと見すべて住宅の要素で作られてるんだけど住宅とは明らかに別種の空間になってて面白かった。
特に2階は住宅というより小さな公共建築みたいな非住宅的スケール感。微妙に大きいんだけど大きいってことは一つの要素に過ぎず、きちんとナカ取ってる感じの寸法というか、その距離の取り方が住宅でありつつ住宅ではない空間を形成していた。
自分の家だとしたらちょっと物足りないかもしれないが、21人の一人にとっては大変気持ちの良い居場所だろうなと感じた。
この距離感は諸江さん独特である。諸江さんの住宅は独特なスケール感だなーといつも思うのだが今回はそれがハマった感じだった。
分厚い中央分離帯で隔てられている住宅建築と公共建築の間に、せまーいけれどもそのどちらでもないことが可能な中間ゾーンみたいなものはあって、それをアイテム使わず設計で、寸法だけで作れるとしたら、面白いかもしれない。
ちなみに21の個室は廊下に並列されているわけではなく3〜4室のクラスタになっており、日本の平均世帯構成人数が2.5人であることを考えると数的にはちょうど合っていると言える。
 
ところで、デカいシェアハウスを見たので同性婚がありなら複数婚もありなんじゃないかと思った。
一夫一婦制というのは男女かどうかはともかく1対1、これは完全人格同士の関係という幻想を前提にしてるような面がある。でも現実にはそんな風に一人でレーダーチャートを満遍なく満たすような人はそういないわけで、でも3人、4人掛け合わせれば結構いいとこ行くよ、みたいなことは往々にしてあるんじゃないだろうか。
…LT城西2ならはそんなユートピア的な状況も生まれそうな気がした。
 
LT城西2は住宅と非住宅の境界線を絶妙に示してくれていると思う。
住宅と公共建築は、プログラムの、敷地の、建物の、関わる人数の、すべてのファクターの大きさが違うため、そもそも比較の対象にならないのが普通だ。でも、どうやらそうした量的な違いがそれほどなかったとしてもやはりそこには厳然たる違いがある、ようだ。
 
住宅と非住宅を分つものについて、引き続き考えてみたいと思う。

場所に組み込まれること/設計が意味をもつ領域

去る24日金曜日は名城の卒計審査会だった。
毎年力作に多く出会えるので、とても楽しみにしている。
今年は力作とともにいい意味での「問題作」もあり見応えのある審査会だった。
私の担当授業は2年生なので、初めて自分の教えた学生と卒計で再会する年でもあった。
知っている学生というだけで意外と感情移入しちゃって冷静に見れない自分におどろく。常勤の先生の苦悩やいかにと思う。
 
惜しくも2位になった水口くんの作品は雪景色の再編集と題した造形センスが素晴らしい作品。ここにこれを設計すべき背景が最後まで今イチ分からなかったのだが、ありふれた既存の町のボキャブラリーを仔細に観察し読み取って、プログラムの必然性?そんなこと(笑)を吹き飛ばすくらいユーモアにあふれた魅力的な複雑系が立ち上がっていた。愛だな、と思った。
3位の濱口さんの作品は絵描きの町美術館と題して、名の知れた美術家ではない、愛好家によるその町の絵を集めた美術館をつくるというもの。建築としての完成度にはまだ頑張りどころがあったと思うが、着眼が素晴らしいと思った。
題材は灯台と石積みが印象的な伊勢辺りのひなびた海辺の町である。
なんだ日曜美術かと思うなかれ。ずっと愛好家に描かれ続けて来た町だからこそ可能な、その町にオリジナルな資質をよく汲み取ったコンセプトだと思う。そういう普通の人の創作もアーカイブすればそれは町の財産になるし、そうした営みを慈しむ視点に共感した。
1位の吉川さんの案は里山保存の反対運動により建設中途で廃線になった道路を小学校にコンバージョンするという作品で、現状は対立関係にある土木遺構/里山を、挿入された建築のプログラムが、相互に補完し合う関係に切り替えるという、社会の中で建築の役割を的確に読み解いた鮮やかな案だったと思う。
 

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今回は2つの極北ともいえる「問題作」があり、設計が意味をもつ領域というようなことについて考えてしまった。こうやって人に考えさせるというのは素晴らしいことで、問題作、はもちろん褒め言葉です。
 
川口くんの公私を越えた〜編集的観察地図は、自分の住む町で自分が収集した色んな情報をとにかく編集しないで全部展示するという作品。廊下まで使ってとにかく紙がだーーっと陳列されている。それ自体そもそも卒業設計のフォーマットを逸脱している。これも褒め言葉。
何らかのアウトプットに落とし込むべきなんじゃないかと皆から言われていたが、私はそれはどっちでも良くて、むしろ収集されている情報そのものにもう少し奥行きが欲しいと感じた。生活の道具とか生活時間のパターンとか、家の使い方、庭の使い方、職場と家の関係、仕事と町の関係…そうした、もっと彼自身しか感知し得ない情報を通して、そこで無意識に営まれている生活の様態が立ち上がってくるような、ものを期待したのだが、呈示されているものを見る限りまだビッグデータ的個人情報の域を出ていない。柳沢先生の言、情報を取捨選択する時点で既に編集は行われているというのは正にその通りで、だからこそ「自分が収集すること」に意味のある情報とそうでもない情報、についてもっと意識的になるべきだったとも思う。
しかし彼が町に対して抱いている愛着は大変大きく、そこから外れることは絶対にしたくないという所でスジが一本通っていて、そこには私は共感したし、可能性も感じている。場所に組み込まれた存在としての自分と、設計者としてつまり介在者としての自分とが鮮明に対立すること、を彼は敏感に察知したのだろうと思う。
 
もう一つの極北作品、柴田くんの娼婦の再犠牲者化への対策と売買春の再構築、はいわゆる儀式空間をテーマにした作品ですが、そのシチュエーションがかなりきわどいことで色んなものが浮き彫りになっていたと思う。
彼が設計したのはそれを通り抜けるという行為を通じて彼女たちが自身の物語を再構築する、ナラティブセラピーの装置だ。
生まれ変わるための儀式空間とか俗事が持ち込まれない「結界」というのは宗教的な装置として現に存在するが、それはそうした人々や状況を「包摂する社会」があってはじめて成り立つもので、表の社会とネガの関係ではじめて成立し、あくまでも受動的なノードとして存在するもののように思われる。
例えばうちの鳥居はガンダムモチーフです!なんて神社は基本的にない。鳥居を好きにデザインしはじめたら、そこにはなんら実体的な機能がないことがただ露になるだけで、絢爛な鳥居を手に入ると同時に鳥居の依て立つ基盤が失われてしまう。
だから設計行為が意味を持たない領域というのがあると思う。
個人の物語を再構築するための装置、あるいは個人的な儀式空間というのはきっと社会の中に完全に組み込まれているはずで、そうすると建築家の振る舞いにより設計するというより社会学的フィールドワークの末に発見する種類のものなのではないか。
柴田くんの作品はそこに踏み込んだという意味で意義がある。が、そのシチュエーション下で何を呈示してそれが説得力をもつのはなかなか難しいだろうなと直感的に思った。
 
川口くんの作品は場に組み込まれる主体と建築家が、柴田くんの作品は場に組み込まれる機能と建築が、両立しないのではないかという鋭い問いを投げかけてくれているように思う。
風土と完全に一体化した建築を、建築家は作れない。
 
卒業設計は課題とも実務とも異なり、自分でシチュエーションを発見・設定し、それに対して自らの設計行為を以て応えるという、かなり特殊な機会で、いわば設計そのものを設計するメタ設計行為が要求されている。
誰も教えてくれなかったことをどれだけ学べたかが評価されるという、いかにも倒錯した場だなぁと思う。そこが面白い。
 
いずれにしても、こうして自分が指導した訳でもましてや制作した訳でもない渾身の作品を、出来た所で現れてあーだこーだと言わせてもらえるなんて、本当に身に余る僥倖です。